実力になる読書

こんにちは。

 

今回は僕が本を読んできて自分の身に着いたなと思う時について書いていきます。

 

実力になる時

物事に対して自分の頭で試行錯誤していて行き詰まった時です。

 

就活で面接に挑むもなんども落とされてしまう。

1回目のデートの後次につながらないというのを繰り返している。

などの状態です。

(あくまで自分のできる最善を尽くしているという前提です)

 

この状態で読むのが良い理由

理由は2つあります。

 

1つ目は、脳がフルに使われているからです。

 

目的を達成しようと自分の考えられるあらゆる選択肢を試して(考えて)います。

仮に本に書かれている答えらしきものを知っていると自分の頭で考えるということを放棄してしまう恐れがあります。

自分であれでもないこれでもないと考えることで結果的に行動の選択力が磨かれていきます。

長期的に見るとこれが積み重なっていき、大きな実力になります。

 

 

2つ目は、本から得られる情報量は読み手の経験に依存するからです。

よく同じ本を読んでも人によって受け取り方は異なると言います。

よく歌でも自分はとても感動するが他の人に聞かせるとなんとも思わないということがあります。

あれは自分の中にある思い出などが曲がきっかけとなり出てくるのです。

つまり本も、経験をもとに自分の中にできた暗黙知が本という言語化されたものによってはっきりと認識できるのです。

 

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上図のように先に経験がありそれを言語化した知識として認識していくことにより実力となっていくのです。

 

結論

まず自分の頭を使って行動してみましょう。

それから本を読みましょう。

 

(注)

もちろん何かを始めるときの参考としての読書もあります。

しかし読書だけで実力がつくことはなくあくまで参考というレベルです。

 

 

 

 

 

 

 

 

専門性とは言語である

よく世の中で専門性を身につけろということが言われます。

では専門性とはなんなのでしょうか?

 

僕は専門性とは言語であると考えています。

 

 

言語の役割は

①物事を認知する

②思考する

③他者と意思疎通をする

という3つがあると考えています。

 

例を挙げます。

りんごが机から落ちそうであることを友人に伝えます。

その現象の認知は「りんご」「机」「落ちる」という言語によって行われます。

そしてりんごが机の端にあるという状況から落ちそうであると推測します。

次にその状況を友人に伝えるために「りんごが落ちそう」という言葉によって友人に伝えます。

 

このように言語は先に挙げた3つの役割を果たしています。

 

 

次に専門性を用いる例を出します。

 

財務会計の専門性をもつ2人がある企業の経営状況を分析するとします。

各々が財務諸表を読みとります。

自分なりの分析をします。

お互いに議論をしながら分析を深めていきます。

 

この時2人が行なっていることは財務会計の専門性を用いて企業の業績を認知し、分析し、議論をするという3つです。

 

これは先に言語の役割で述べたことと同じ役割です。

 

補足になりますが、専門性とはそれさえあれば優れた仕事ができるというものではありません。

 

それを基盤として、新しい考察や応用をし、付加価値を生み出していくことこそが優れた仕事なのです。

 

 

 

 

 

 

「書く」「読む」と「話す」「聞く」

こんにちは。

 

僕は昔から書くのがあまり好きではありません。

学校の作文などもいかに文字数を稼ぐか、改行を多くできるかばかりを考えていました。工場見学などの感想も楽しかったです、感動しましたというようなありきたりなことばかりを書いてやり過ごしていました。国語の成績もあまり良くなかったです。本を読むのも嫌いでした。国語のテストは苦痛でしかなく早く終わってくれとばかり思っていました。

 

一方「話す」のは昔から好きでした。発表のような一方通行のコミニケーションも、対話のような双方向のコミュニケーションも好きでした。先生にも話すのがうまいと褒められていた記憶があります。「聞く」のも得意でした。先生の授業や友達との会話もすぐに相手が何を言いたいのか理解することができました。

 

大学に入ってから本を読むようになりました。初めは読もうとするも内容がつかめず読むことをやめるということを繰り返していたのですが、易しい本から慣らしていったところ読書がとても好きになり、今では多くの本を読むようになりました。読むスピードも初めはとても遅かったのですが、今ではかなり速く読むことができます。「読む」ということはかつて苦手だったのが今では得意になりました。

 

「読む」と「聞く」何が違うかったのでしょうか。

僕が考えるに「聞く」は話者の声色や間合い、表情などから様々な情報を読み取ることができます。それに対し、「読む」はその文章のみの情報となります。そこから絶妙なニュアンスなども読み取らないといけません。文字という無機質なものから想像を膨らませるという回路が弱かったのだと思います。聞くのは多くの情報を元に推測をすることができます。だから想像力というよりは洞察力を働かせているのだなあと思います。

 

「書く」と「話す」は何が違うのでしょうか。

「話す」ことは流れるように言葉を発してそれが消えていくけれども「書く」は発した言葉がどんどん積み重なっていくように思います。考え方も、話すことは即興的だけれど、書くことはじっくり考察するような感じです。また読む、聞くの対比と同じように情報が文字だけなのかその他のものも含まれるのかという違いもあります。

 

就活の時に面接官に何をいっているかわからない時があるががとても頭が良いと思ったというフィードバックを受けた。これは「話す」における言語外でのニュアンスや表情による伝え方が機能しているのだろうと感じた。一方で「書く」という能力が低いため文字に起こすと何をいっているかわからないという状態になるのだろうと思った。

 

書く能力を鍛えるためには構造を意識することが大切だと感じる。

一番大きな枠組みでいうと全体での議論を組むための段落構成。その次に段落ごとでの主張を成り立たせるような文章構成。そして細かい表現法という順序になると思う。

(あくまで思うだけ)

これまで書くことをおろそかにしてきた。しかし書くことはじぶんの頭の整理にも人に論理を伝えることにも大きな力を持つ。

来年の目標は書く能力を鍛えることとしよう。

 

 

スマブラ新作

こんにちは。

 

僕はスマブラがとても好きです。

64、ゲームキューブの頃は友達の家でワイワイとやっていました。

Wii版ではタイマンにはまり、友達8人で集まっているのに大乱闘をせずに1対1のトーナメントをやっていました。

 

僕はスネーク、ルカリオを使っていました。中二病なので基本的にかっこいいキャラしか使わないです。当時は技の発生フレームを調べたり、ガーキャンなどのテクニックを練習したりとかなり真剣にやってました。

 

スネークでは手榴弾をまきながら相手を牽制し、格闘技でダメージを貯めていき、横強、上強、空中攻撃でフィニッシュしていました。格闘のリーチと判定が強かったので大半のキャラに押し勝てました。重いので吹っ飛びにくい上に復帰の距離も長かったので180ダメージほどまで持ちこたえることもできました。また、本来遅いのですがダッシュキャンセル上スマで瞬間移動していました。

弟とは受験期でもひたすらタイマンをして腕を磨いていました。

高校になるとたいがい中学では一番強かったみたいなやつが集まるのですが正直敵なしでした。

大学に入るとスマブラサークルがあったので新歓にいきました。サークルの部長と世界大会でている人以外には全員に勝てました。大学の友達でも俺強いみたいなやつがいたんですが全員ボコボコにしてました。

 

 

そんな感じでスマブラ大好きマンだったのですが徐々にやる機会もなくなりとうとうWiiU版でスマブラから離れました。

 

そして今回帰省で弟がSwichの最新作を持っていたので久々にやりました。Xと比べてゲームスピードが格段に早くなっておりとても焦りました。また、スネークが以前ほど強くないのでそれもガン萎えしました。けれどもやはりスマブラーの意地があるのでちょっと練習していきたいです。

 

 

地元の空綺麗すぎ問題

こんにちは。

 

年末により実家に帰省しています。

僕の地元は田舎です。

高校まではそれが普通だと思って過ごしていたのですが、大学で地元を離れてあまりの違いに驚きました。

徒歩圏内で生活の多くのものが手に入る。

実家にいた時は買い物に行く時は必ず車に乗っていました。

 

僕は大学に入った時劣等感を感じていました。

都会の公立進学校や私立中高一貫校に通い、親の学も高く、小さい頃からいろんな経験をし、エリート街道を進んできたような人たちを見て、自分はなんて惨めなんだろうと思っていました。

 

入学当初はそんな人たちに馴染もうとしたり、自分のプライドを保つために少し冷たい態度をとったりしていたのを覚えています。少しでも垢抜けようとおしゃれを研究しました。

どうしてもっといい地域に生まれなかったのか。そんな不満を抱えながら生きていました。

 

就職活動で東京の学生に会った時などはさらにひどいものでした。東京の都会さに圧倒されました。こんなにたくさんのものがあるのか。そこでの暮らしをあたりまえのように話している学生たちに対して嫉妬を感じました。人間は平等だという言葉があるが、機会の格差はこんなにも大きいものなのか。面接で機会格差や教育格差をなくしたいみたいなことも言ったりもしていました。

 

都会に生まれた人は幸せで田舎に生まれた人は不幸だと思っていました。

 

この話を以前親にしたところ、

「家も広いしネットでなんでも手に入るし今の暮らしで満足しとる。周りの人もそうやし、あんたが勝手に価値観を押し付けてきとるだけやろ。」

と言われました。

その言葉がすごく刺さり、確かにそうだと思いました。

 

更によくよく考えると一族が優秀で生まれながらにエリートの道を望まれて育っている友達も何人もいますが窮屈な思いをしている人もいました。

都会やいい家に生まれたからと言って幸せとは限らないと思いました。

就活で出会った東京の大学の人たちもきっと激しい競争の中で消耗している人もいるだろうなと感じました。

 

久々に帰省し、最寄駅から実家まで歩いていると空がとても綺麗でした。建物があまりないので視界がひらけて360度眺められます。高校までは当たり前のようにみていた風景、大学に入ってからは何もないとバカにしていた風景。それが今ではとてもきれいなものと感じます。

ブログは健康にいい?

こんにちは。

 

僕はかなりのおしゃべりです。

いつでもというわけではないですが、気を使わなくていい友達といる時はほぼずっと喋っています。

というか一人でいる時も頭の中でずっと喋っています。

 

おそらくこの癖は小学校の時にできました。

小学校の頃かなり勉強が得意な方で配られた問題などもすぐに終わらせていました。

授業も聞かなくてもわかるのでとても退屈でした。

だから次の休み時間に何をしようかと考えたり、このネタで笑わせようとかそんなことばかり考えていました。

授業中は他のことをできないから暇をしのぐために頭の中で話す癖がついたのだと思います。

 

だから僕は人に思ったことを延々と話し続けることでストレスを発散させます。

実家にいた時は母親に延々と思ったことを話していました。

思ったことを行ってしまうので友達をイラつかせていたかもしれません。

 

大学に入るとこれまでのようにクラスでずっと一緒ということがなくなり、最悪一日中誰とも話さないということもあります。

あまりこれまでは深刻に考えていなかったのですが、僕にとって思ったことを話すというのはかなりストレス解消になっていたようなのです。

頭の中を整理するのにも役立っていました。

今にして思うととてもストレスを感じていたように思います。

 

その代用として日記を書き始めました。

特にルールは決めずに思ったことをひたすらに書くというだけのものです。

 

その延長に今のブログがあります。

 

現代において人はアウトプットをする機会というのは意外と限られているのかもしれません。

 

思いっきり書きたいことを書けるブログは体にいいのかもしれません。

カキフライ定食

こんにちは。

 

家の近くに行きつけの定食屋があります。

そこはボリュームもあり値段も700円ほどで美味しいです。

 

僕はそこのカキフライ定食がとても好きです。

サイズが大きく身もとても締まっています。

もともと牡蠣は好きではなかったのですが、一人暮らしをしているとなかなか食べることがないので物珍しくて頼んだら美味しかったのでそこからハマりました。

 

ここ数ヶ月カキフライ定食がメニューから消えていて食べていませんでした。

 

そして今日久々にカキフライ定食が復活していました。

すぐに注文をしました。

とても楽しみにしていました。

一口食べると

あれ、これ中身入っとる??

というくらいふにゃふにゃで小さい牡蠣でした。

ほぼフライだけでした。

 

時期の問題かなあと思いながら完食し、店を出ました。